
いままで、港にある2つの洞窟と、砂浜の2つ、海面上の3つの計7つの洞窟を確認しました。

岩場の突端まで来ましたが、この先にもまだ何かありそうです。
岩場伝いに突端の向うに行ってみましょう。

さあいくよー

岩場から、さっきの最後の洞窟で見たのと同じ突起が突き出ていますね。

ミルクもがんばります。

おお~っ、
小さな秘密の砂浜があって、
やっぱりまだ洞窟がありますよおっ!

ただしここから先はちょっと海に入らないと行けそうにないよ。

ミルクとママはあぶないから砂浜に帰っててください!

と、いうわけでミルクはここで引き返しました。
この先は、うまく岩をよじ登りながらいけば、濡れないで行けそうな気がします。
ねっ、グレース、慎重にさぁ…
ええっ!?

この方が早いです、一番乗りです!

気をつけてねー、待ってるから。

というわけで、ぼくと、有志参加の娘、甥っ子もなんとか上陸しました。

そこでまず見たのは、ええっ!?
洞窟に古いボートが入ってますね!?

あれが震洋かぁ?

洞窟に入ってよく見たら、熱海あたりから漂流してきたプレジャーボートでした。

奥行きはここだけいままでのものより若干深く、天井も高いです。
満潮時は狭い入り江で波が入るからか、内部には漂流物がたまっています。

また入り口付近がコンクリートで補強されています。

わたしは砂浜であそんでますね。

ん、ぼくらももう出るよー
…と言ったときでした。
ボートの陰になっていた壁面に、魂の叫びを見つけてしまいました!

そこには
「飛練四十期 轟沈 昭和二十年五月」
と記されていました。
昭和二十年といえば、終戦の年。
まさに終戦間際に特攻兵器が使われたという証のようでした。

そして飛練とは何か?調べてみました。
飛練とは、「海軍飛行予科練習生」の略で、
大日本帝国海軍における航空兵養成のための志願兵だそうです。
つまり、ここに配属された兵士は、国を守るパイロットに憧れて志願して入隊したものの、
戦局厳しくなり、乗る飛行機もなくなったために、
ベニヤのボートの特攻兵器に乗らされる羽目になったということです。
ひときわ大きく、勇ましく書かれた「轟沈」の文字…
そこに籠められた無念の思いを想像したら、目頭が熱くなってしまいました。

砂浜で流木を追っかけて無邪気に遊ぶグレース。

あの向う側の真っ白い砂浜のような平和な今は、
この日陰の洞窟のような時代があって手に入れたものなんだ、と感じました。

ぼくは戦争とか国家のこととかに関して、
いささかの思想・主義も持ち合わせてはいないけど、

ぼくが生まれるほんの20年前までに何があったのか?
もう少しちゃんと知っておきたいと思うようになりました。グレースと一緒に。

静岡県賀茂郡南伊豆町、手石の震洋基地跡でした。

我が家は毎年下田に行っていますが、
こちらは知らなかったです。
しかも、「震洋」という特攻艇という存在も、初めて知りました。
何年か前に、人間魚雷の回天記念館がある、
山口県大津島に行ったんです。
いろいろな物が島のあちこちに当時のまま残されていて、
衝撃を受けたことを思い出しました。当時のままの物に直接触れると、
なんとも言えない思いになりますよね。
こんばんは!
この件は先日の城ヶ島から戦争遺跡に興味を持って、
調べたらこんなのがあるのか!という感じで知りました。
山口は行ったことないのですが、家内の実家が長崎で、それで長崎の史跡には行ったことがあります。
そこも人間魚雷の研究所跡でした。
いずれも現代とはまったくかけ離れているような、受け止めがたい話ですよね。
この手のものはいままでは無関心だったのですが、
急に見れるものは探検がてら見てみたいと思うようになりました。
こういった先人たちの犠牲の上に
今の平和があるのですから、
私たちはしっかりと生きる義務、
責任があるのですね。。
改めてそう感じました。
私の恩師にあたる方が
予科練の生き残りです。
実際に出撃もされていますので、
貴重なお話を多く聞いてきました。
それだけに、こうした兵器には特別な思いがあります。
貴重なお写真の掲載、有難う御座いました。
あぁ、そうだ。
二階建の建築物で、外に階段がある作りはよくありますよー。
なんと、建物内部に階段がなく
二階にいくにはいったん外にでなければならないという不思議使用・・・(増築の結果、とも思えない)
おかげで雨の日などは難儀しました(苦笑
民間ではみたことがないので、
何か特殊な意味でもあるのかなぁ・・・と考えておりますが、よくわかりません。

おはようございます。
ご指摘ありがとうございます。
すみません。無駄死にという言葉は不適切でした。
この記事を載せるにあたり、事前の情報収集で、
「終戦までに震洋の体当たり攻撃で沈んだ連合軍の艦船は、アメリカ側の資料によれば4隻。その一方、命を失った震洋隊員は、基地隊員も含め、2500人にも上る。爆発事故や空襲などで、多くの若者たちが敵艦に突入することなく命を落としていった。」(NHK戦争証言アーカイヴス)
などの事実、一方大本営からは過大に誇張された特攻戦果の流布があったことなどを知り、
同じ齢の子を持つ身として、怒りに近い耐え難い感情がありました。
しかし、現在の平和を掴むために尊い命を捧げられた英霊に向けて使う言葉ではないと気付きました。
今後も戦跡を取り扱うのであれば言葉遣いには細心の注意すべきと反省いたしました。